2003年の天皇杯本戦 阪南大学 vs 市立船橋高校
この試合は、前半早い時間で市船の渡辺広大がゴールを決め、そのまま1点を守り切り試合終了。
阪南大学4年生の部員は、この試合をもって大学サッカーを終えた。
中には、Jリーグを希望する部員もいた。
部員の1人は、ジェフから内定が見込まれていたが、急転直下、破談となってしまう。
その後、東北のJ2クラブにテスト生として入団。
テスト生からのスタートだったが、数年後にはレギュラーとして活躍。所属しているクラブは、しばらくJ1昇格に届かなかった。
2008年は3位に滑り込み、当時のレギュレーションでJ1J2入れ替え戦に進出。
対戦相手となったジュビロの19歳(当時)松浦 拓弥の活躍が目立ってしまう2試合だった。
一方、J2クラブのキャプテンに成長した選手も攻撃力を存分に発揮。
ホームの第1戦では、絶妙なアシスト。
アウェイの第2戦では、後半ロスタイムにフリーキックから直接ゴールを決める。
残り時間は2分くらいだったが、あと1点とればJ1昇格という展開になる。
そんな中、コーナーキックのチャンスを得る。時間を考えると、ラストプレーだった。
息の上がっていたキャプテンが、コーナーキックのボールを蹴る。
そのボールに合わせにいったのは、渡辺広大。
J2クラブで再会したとき、(冗談で)「引退させてくれたのは君か!」と言われてしまった選手だ。
しかし、ジュビロの前田遼一が大きくクリアして試合終了。
この2008年で、悲願のJ1昇格は達成できなかった。
翌2009年
違う東北のクラブがJ1で健闘する中、東北のJ2クラブは昨年同様上位争いに食い込んでいた。
そして迎えた、第32節真夏の水曜ナイター。
三ツ沢に乗り込んで横浜FCとの一戦を迎えた。
当時の横浜FCは、J2のブービーに低迷していたが、前半5分にセットプレーのチャンスから難波が先制点をあげる。
J1昇格を目指す東北のクラブは、反撃の糸口すらつかめず完封負け。痛い1敗を喫する。
この試合のスタッツ(Jリーグデータサイト)
ファン・サポーターは、内容・結果ともに大きな不満を抱く。
一部サポは、前半終了時にもブーイングを飛ばした。
試合終了後は憤怒するサポーターが多数いた。
(参考)前半終了時にブーイングを飛ばした一部サポーターに対して、当時の監督は、翌日クラブハウスへ集めさせた。
以下、書籍の引用 引用元(戸塚 啓 著・不動の絆 ベガルタ仙台と手倉森監督の思い・角川書店)
「試合後すぐに、サポーターを呼んでほしいとスタッフに頼んだんです」
仙台へ戻るとすぐに、サポーターと対面した。クラブハウス内のミーティングルームに、30人ほどが集まったと記憶している。手倉森は険しい表情のまま切り出した。
低調な試合で大ブーイングを浴びても、うなだれる様子がなかったのは、東北のクラブのキャプテンだ。ファン・サポーターの近くまで来て、前を見据えた表情が、カッコよく見えた。
この試合以降、おれは「梁 勇基」というプレーヤーを特別視している。
おれが書くまでもなく、ボールテクニックは本当に素晴らしい。
練習を積み上げることによって得られた強い信念があったからこそ、メンタル面も秀でていた。
1か月後のヴェルディ戦(西が丘)で、梁勇基は数的不利をものともしない活躍を見せる。2-0でベガルタが勝利。千葉直樹がサッカーする楽しさを感じるほどの試合内容。ベストゲームといっていい。
(この試合のダイジェスト。音声はミュートにすることを薦める)
最終的にはJ2優勝を果たし、J1昇格を果たす。
2010年は、念願のJ1の舞台にたどり着いたが、苦戦を強いられる。
J1では初めての「みちのくダービー」となったアウェイの山形戦は1-3で敗戦。
試合後の殺伐とした様子は、今でも覚えている。梁勇基以外の選手の顔が死んでいた。
(一部サポはバス囲みを決行したが、更に酷い行動をとったらしい)
この試合は、もう一人のサポーターと2人で応援したが、「この状況だと、降格する」と話したことは今でも覚えている。
それでも、梁勇基個人は下を向くことなくプレーでチームを引っ張る。
この年は直接フリーキックを3本決めているが、どれも注目度が高い試合だ。
(ホーム浦和戦 アウェイ山形戦 ホーム山形戦)
8月中旬にワンタッチスコアラー・赤嶺 真吾が加入してからは、輝きが増した。
一時は降格圏に低迷していたが、引き分けでも残留を決められる状況で最終節を迎える。(その前のアウェイ新潟戦、アウェイ広島戦でも残留を決める直前までいったが…)
1点ビハインドで迎えた後半ロスタイム。
猛攻を仕掛ける中で、コーナーキックのチャンスを得る。
バックスタンドの応援中心部近くで、ボールをセットするのは、もちろん梁勇基。
このときのサポーターの盛り上がりは、過去最高レベルだった。
梁が蹴ったボールは、渡辺広大の頭にドンピシャ。見事な同点ゴールをアシスト。結果、自力でJ1残留をつかみ取った。
その翌年。ベガルタは、赤嶺を完全移籍で加入させた上で、マルキーニョス・柳沢を獲得。
FW陣は、過去最強レベル。開幕戦のアウェイ広島戦は現地観戦したが、梁とマルキーニョス・赤嶺の相性がよく、応援していてワクワクする試合だった。
その試合から6日後。東日本大震災が発生。
この日以降、ベガルタ仙台は「さまざまな使命」を背負いながら活動を続けることになる。
名実ともにチームの中心となった梁は、マスコミから大きな注目を集めた。
リーグ戦再開直後のアウェイ川崎F戦では、フリーキックから決勝ゴールをアシスト。全国メディアから、さらに取り上げられるようになった。
直後のホーム浦和戦でも勝利。2011年の梁は、ベストイレブンに選出されてもおかしくないような活躍だった。
翌2012年。太田吉彰が絶好調。ケガで出遅れたが、第7節で復帰。そこから優勝争いに食い込むが、2位に終わる。
半ば夢物語に思われたACLに出場した2013年。グループリーグ最終節のホーム江蘇瞬天戦。後半終了間際に絶好の位置でフリーキックを得るも、梁は決めきれず、試合終了。グループリーグ敗退が決定。
このシーズンの梁は精細を欠き、おれ自身は応援していて少し辛かった。
しかし、2014年以降もベガルタの中では、大きな存在だった。
チームの中で揺るぎない実績・信頼を築き上げていた。
だが、
今年の天皇杯3回戦vsカターレ(富山)を現地観戦して、No.10 梁勇基との別れが近いことを悟った。
(結果的に、この試合が最後のフル出場)
そして本日、ベガルタから契約満了が発表された。覚悟はできていたが、やはり寂しい。現役のうちに、タイトルを獲りたかった。
梁がベガルタに在籍したのは計16年。J2時代も長かったが、現場の頑張りで、来年は11年連続のJ1となる(今の高校生以下は、ベガルタにJ2の印象がないはず)
梁は、プレーでも、精神面でも、チームを引っ張ってくれた。J1に定着させてくれた。
何より、ベガルタに携わる全員に、数々の「いい思い出」をもたらしてくれた。
今は、別のチームのユニフォーム姿は想像できないが、
家族のためにも、悔いのない現役生活を送ってほしい。
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